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3.ひかんぺらの権現様
「ひかんべら」は舟底山の越山寄りの鞍部から斜め右上に《権現様》と言う所があり、赤松の林の中に石積みで囲った場所
があり、・御嶽大権現・駒ヶ岳大権現・秋葉山大権現・大山祇命の四社が祀ってある。ここは神様なので石仏とか観音様
とは少し趣が異なる。右積の前は平らに均してあり、八十八夜には、1年おきにお祭りがあって村中の人がお参りをして
その後、重箱のお菜をつつきながら一杯呑んで祝ったものである。
 
 仏教が普及し死者をお墓に弔う様になる前は、死者は山や薮の中等にかってに埋めていたらしい、そして死者の霊は山
の上に戻って行くと考えていたらしい、御嶽教や駒ヶ岳の信者はそのような考え方の宗教である。『ひかんべら』の権現様も
そのような信仰の考え方からできたものと思われる。相当古い時代からの信仰である。昔各豪のそばの煤竹の薮の中には
これとは別に家ごとの山の神の祠が祀ってあった。
《写真a》《写真a》

 
4、大木
(1)村の境の標木
 村の境には標木を立て、または天然の樹木を境線の目的に利用していた。これを榜示(ボウジ)といい、その場所を榜示
処といった。後には意味を忘れて、法事堂だの法師戸だのという字をあてたが、これの存するところは必ずある時代の村堺
である。三河などでは分木ともいっている、札木というのも堺の木であったか、そこに制札などを立てる風があった。
 
塚は多くの場合村の堺に築かれている、これは塚の祭りが外敵侵犯を防ぐを目的として居たためかと思う。その外敵には
人間だけでなく、目に見えぬ悪霊を追却することもあった。村の虫送りに旗を立て、夜は松明を焚いてここまで送ってきた。
村堺の踊り場で行われた盆踊りはやはり亡霊を送る行事だった。(柳田国男・地名の研究に拠る)
 
(2)乞食森の大きな赤松
 松判場(マツアンパ)から滑川との堺のハバ沿いに300メートル位東北へ上がった所に、『乞食森』と言う地名の場所が
あり、昭和三十年頃までは大きな赤松の木が数本生えて居た《注1》、高い木で遠くからでも見ることが出来た、
烏が巣作りをしていたのか何時も数羽が止まっていた。乞食のような人が住み着いていたとか?昔外部の人間が吉野に
入り込んで来たため殺害した跡だとか? 真相は不明だがきいたことがある。
 
(3)松判場(この字が正しい)
松判場の近くで上の方にある「血とり原」のすぐ下の樅の巨木の横の所や、血とり原の上の笹の多い森の中などには
「梵天」が立ててある(昭和30年代頃迄)場所があったが、これらの場所は『塚』があった所かも知れない。
梵天は誰か、吉野人以外の訳有り人の亡霊供養のため祀りをしていた跡と考えられる。
 
(4)塞ノ神の桜
塞ノ神の桜は、昭和十五年頃までは塞ノ神の夫婦道祖神の祠の裏に直系1メートル近くの桜の枯れた幹が残っていた。
この桜は大正の初めのころは春になると長い枝一杯に咲いていたらしい。樹幹五百年仮定すれば、安土桃山時代から生存
していたことになる。
 
(5)ほらろの赤松
ほらろの赤松は、ほらろの八合目くらいの高さの所に、直径1メートル以上の赤松があり一際目だって聳えていた。この松
は戦時中経済的な理由で切り倒して二束三文で売ってしまった。今考えるともったいない話である。この松を切り倒せる杣は
名人『伝六』以外には居なかった。
 
記事:
<a.ひかんぺらの権現様 >
  
 
    
 
 
《注1》乞食森の大きな松ノ木
下写真はオレの中学1年頃(s33/1958)撮った写真で中心に写っているのが、乞食森の大きな松ノ木です。


オレの場合、小学校から中学校まで自由絵を描く場合は、
何時もこの写真の絵で、駒ケ岳・風越山、吉野橋、
滑川・乞食森の松ノ木の5点セットで描いていました。
 
小学時代から通り慣れた通学路で、お気に入りの場所
でしたが、昭和30年後半と思いますが、松ノ木は切られ
変わりに鉄塔が立ってしまった。鉄塔では絵にならないね。


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