第3章.追憶の吉野(昭和10〜20年頃)


【目次】  次p1-12<<【p2-7】>>次p2-8
 
1.吉野の・お寺・お宮
(1)吉野のお寺の地名
吉野には『寺』の付く地名として寺久保、寺田、でんもんじゃぶ(禅門寺藪)などがある。最初には何処かに小さいお堂のよう
な建物があり山の神などと何か関係するものを御神体として祀り信心をしていたものと考えられるが、根拠となる情報は
今のところ何も無い。
 
今の吉野の鎮守様としてのお宮は『熊野大権現』となっているが、明治元年(1868)昔からの神仏混淆の風を改めるため
神仏分離の令が発せられ全国に廃仏毀釈の嵐が吹いた時、其れまで、『弥勤菩薩』を祀った寺だったものを、政府の命令
に反して、廃仏毀釈ずに残し、別の所から移設した山の神などを合祀して、神社のような形にしてカモフラージュしたものと
想像される。以前は村人が信仰・団結の中心として建てた、僧侶の不在な『お寺』だったのである。
 
(2)お宮(熊野権現)《写真a》
此れより前の吉野のお宮は、来宮と言って、「のまねやぶ」(野真箆の薮)の辺りにあったらしい、祭神は始めは山の神、
猿田彦、寒ノ神、伊勢神宮、出雲大社など祀る神道で後には、御嶽、駒ヶ岳の霊人様などだったかも知れない。
 
吉野の熊野大権現は、弥勤菩薩、薬師如来などが祀られており、八幡さま、鹿島さま、御嶽明神、駒ヶ岳明神さまなどと
併せて祀っている。《写真b.c.d》
弥勤菩薩が一番大切な御神体とされており、二十年くらいに一度開帳される、各仏像の由来は第2章に
記述済み。弥勒曾様は熊野権現の本殿に存置されており、大きな鏡が二基備えてある、弁財天は小ぶりで着色した嘉な
立像である。曾ては、このお宮で二百十日などの厄日には、平穏祈願のため、栃のみ作った大きな数珠を村人全員が手
に持って回していく、『百万遍念仏』を行っていた。昭和20年代まで続いていたものである。九月の十日ころ吉野祭りが催
され祝詞をあげ、村中安泰、豊作などを願った。祭りには幟が建ち、煙が昇って、太寧の音が響いていた。
また、まっあばの越し伯母という人がお菓子や福引などの玩具を売っており子供たちも大勢集まり賑わった。
 
このお宮(神社)が出来る以前にも、寺の名前は何と呼んだかわからないが、何処かにお堂みたいなお寺があったようにも
推理される。或いはこの熊野権現の近くに別のお寺があったかも知れない。寺田と言う性は、この寺にちなんで付いた
ものと考えられる。はじめはもっと山の方の、寺窪と言う地名の辺りにあったことも推定される。(デンモンジャブと言う地名
がある。これは弾門寺薮という解釈をすると、此の辺りも妖しい地名であるように思われる)
 
記事:
<a.お宮(熊野権現)の写真>


お宮の写真が無いので、姉に撮影を依頼し、
2015/12/20にこの写真を送って頂きました。
 
オレの田舎に居るころは古い建物だったが、
この写真を見ると最近新築したようだね。
この写真で知ったので何時立て替えたかは知らない。


<b.お宮にある駒ヶ岳明神の写真> → <c.d 2石像の拡大写真>
  
写真c、拡大した写真dは、神様ではなく、弥勤菩薩または薬師如来の仏さまに見える。
 
■お祭りの日お宮では、「まっあばの越し伯母という人がお菓子や福引などの玩具を売っていた」のは、オレの小学年
低学年の頃(昭和27年)も続いていました。お宮に遊びに行くと、そこに売っていた葡萄や梨などをお祭りに来ていた大人
が買って、子供たちに分けてくれたのを美味しく食べた記憶があります。店の一軒も無い吉野でしたが、お祭りの日には、
越し伯母という人が、お宮の隅っこ一坪ほどの店を出していたのをオレと同年以上の子供は皆覚えていると思います。
 
【目次】  次p1-12 <<【p2-7】>>次p2-8