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13.年中行事
 年中行事という言葉は、千年も前から日本には行われいるが、いつのころからまたどうゆうわけで、こうしたいろいろの
常とかわった風俗が、毎年日を定めて行われているのであろうか。ということが問題であるに反して、昔からの年中行事を本
や帳面に書いて伝えているものなどはほとんどない。
 
年中行事の研究はまだ広々とした未知数がある、これがだんだん開けていくにつれて、我々のの古い歴史、周囲の民族と
の繋がりもわかって来るかもしれない。
 
(1)正月
 『正月』暮れの28日は門松を立て餅をつき、一日から三日ぐらいまで休む「大正月」それから七日の七草に休み、
十一日に休み、十四日から十五日までを「小正月」といって休んだ。
二十日には 「二十日正月」 といい、休む日が幾日もあった。
 
 門松は三段に枝がついた、2.5メートルくらいの高さのものを家の入り口の前に二本立て、藁で編んだ『おやす』というもの
を縛り付け其の中にはご飯などを進ぜておく。門松には縄で綯ったしめ縄に三引き四枚の幣をはさんで飾った。
 
 暮れの三十一日の朝か昼ころ年とりの御馳走を食べた。御馳走は、タツクリ、カスノコ、黒豆栗、煮しめ、ブリか荒巻きの
焼き魚、酢蛸、ウサギの肉、熟柿、干し柿、小ガキ、ミカン、茸の酢の物、.干した票、などであった。
 
正月のごっそで特に美味なものは何と言っても『ブリ』である。このブリは、富山の氷見の辺りで捕れたもので、一匹約7キロ
に塩2.7キロの塩ブリとして、野麦峠から奈川村の川浦を通ってしょってきたそうだ。
これは鉄道が開く明治35年頃までの話。ブリ1匹の値段は大正時代までモミ5斗が相場だった。今のお金に換算してみると、
米40kg約2万円。1匹はよほどのお金持ちで無い限り、中々買うことが出来なかった。
(当時は1ヶ月の労賃が25円〜30円)金の無いときの年とり魚は塩サンマや鰯であった。
 
元旦の朝は雑煮を食べた、四角い餅を焼きお湯に浸けて粉を落として煮た、具には、鳥肉、・カンピヨウ、干し茸、ネギ、
チワ又は、カマボコなどが入っていた。
二日の朝は「ずるいも」(長薯をすって、鰹節とカンピヨウの出し汁をいれて伸ばしたもの・トロ口汁)を作り麦飯に掛けて食
べる。4〜5杯食べたひともいるくらいで実に美味なり。これは親父が作った。
 
記事:
『正月』の行事は、オレの子供のころは、この小史に記述内容とほぼ同じだったが、数十年来、正月は帰っていないので
現在もどの程度続いているのか判らない。
 
特に、暮れの三十一日は「年とり」と言って1年で一番ご馳走がでた。
 
■正月準備の餅つき
12月の27日か28日頃餅つきを行いました。モチ米を蒸して臼で搗き(ツ)ますが、吉野では一般的には各家に花崗岩を
彫った石臼があり(実家にも外にホボ平らな大きな花崗岩があり、臼が彫ってあった)、たしか毎年5〜6臼ついていました。
モチの種類は、半分は普通の白いモチですが、後はトチ餅・ごんぼ餅(ヤマゴボウ)の葉を茹でて入れる・豆餅(蒸す時
大豆を混ぜる)、の3種類がありました。少し茶色のトチはホロ苦い味て大変美味しく大好きでした。トチの実の灰汁(アク)
抜きは数日掛かり大変そうでしたが詳しい灰汁抜き方法は知らない。(何時のころからか電気餅つき機に変わっています)
 
吉野を出て60年以上になるが、暮れにはトチ餅を含む餅を毎年送って来ます。両親が亡くなってからは兄・兄嫁が継続して
送ってくれることを感謝しています。おかげで、正月には懐かしい故郷の味を味わう事が出来ます。
 
■正月準備の兎を食肉に
吉野の殆ど家では兎を飼っていました。子供も生ませて増やして育てましたが、これは別にペットではなく、どの家でも正月
前にはツブシテ「年とり」及び「正月」のご馳走にしました。
 
1家で2羽の家もあり、各家でサバク(解体)のは大変ですが、そこは昔から続いているようですが、12月暮れになると解体
業者が集会場の所に来て、連絡があるとどの家も兎を持ち寄って解体して頂きました。オレの木曽に居る時はこの行事は
続いていたが、今ではどの家も兎を飼っていないので兎の食用化は無くなったようです。
なお、自分が解体業者の所へ運んだことがないので、費用のことは判らないが、解体代は皮を引き取って頂き、皮代との
差し引きで殆どタダと聞いたきがする。ついでにニワトリの解体もやってくれたがこちらは金を取られたようです。
 
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