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●タナビラ
 『たなびら・いわな』吉野のいすぎにも『たなびら』などが多少棲んで居た、いすぎの砂払いの時に水を止めていすぎを空に
するので、此のときには、何人かの人がいすぎの水たまりなどで『たなびら』を手づかみで取っていたが、多い人でも10匹
くらいしか取れなかった。
 
たまに河原の流れが分岐したとこの片方をせき止め川干しをしても5〜6匹位しか取れなかった。それでも美味のため貴重な
食糧であった。
 
●小鳥
『小鳥』、「もず」 「しとと」 「スズメ」 「かしどり」 「はと」 「うぐいす」 「ヒガラ」 「ヤマガラ」などの小鳥が多く飛来して来た、
春の巣作りの頃は小さい卵を取って茹でてて食べた。
秋の末から冬にかけては、「圧せ」や「こぶち」(撥ねる罠)、沢糯《写真a.1〜12》、糯ざお、などで捕獲して焼いて
食べたりした。罠では中々捕れなかった。
 
小鳥は餌付けて鳴き声を楽しんだり、お囮にするために飼っている人もおった。
「ホホジロのことをシトト(鵐)と言っていた。
(目に菊座のような輪がある鳥の総称ホホジロ・アカジロ・クロジなどの鳥のこと、古語なり)
 
◆以上に挙げた小生物物類は、戦後の農薬使用などにより、「イナゴ」等の昆虫類が絶滅状態になったため、今は殆ど
飛来してこない。
 
記事:
<a.沢糯(モチ)で捕れた小鳥の写真>
上記小史には「巣作りの頃は小さい卵を取って茹でてて食べた」とありますが、卵を獲った記憶は、特に無い。ただし、小学
生のころは毎年のように巣を探し、小鳥が巣立つ前に子供を獲ってきて、手乗り文鳥のように慣らそうと思ったが、学校へ
行っている間餌をやらないこともあり、結局親になるまで育てる事はできなかった。
 
 この小史に『沢糯』の詳細は載っていないが、風越山に清水が出ている箇所が数箇所ありますが、そのうちの確か
「一の沢」と言っていた所に、秋になると中学・高校のころ休みの日は、何時も早朝のまだ暗いうち出掛け、水のみ場に鳥
モチを仕掛け野鳥を捕って来ました。1日に捕れるのは多くても10羽程度でしたが(魚釣りと同じでボウズ[0]の日もあり)、
夜は焼き鳥を家族全員に焼いてあげ皆に喜ばれた。これは秋の9〜10月頃のは話ですが、霜が降りると鳥は霜を食べ沢に
水飲みにこなくなるので、霜が降りるとこの猟は終わりです。
 
50年以上前の話でよく覚えていないが、記憶に残っている捕れた鳥は以下の種類でした。
<左から、1コガラ、・2ヒガラ、・3シジュウカラ、・4ヤマガラ>(木曽では1.ヒガラと、2コガラの呼び方が逆です)
    
 
<左から、5ウグイス、・6ホオジロ、・7コゲラ、・8キクイタダキ>
    
 
<左から、9ヤブサメ、・10エナガ、・11ウソ、・12ヒワ>
    
 
<b.野ウサギ>
この小史に記述がなかったが、野ウサギも獲った

「うさぎおいしかの山」という歌詞が出だしの、文部省唱歌故郷 (ふるさと)は好きな歌で、
故郷を思い浮かべると何時もこの歌が頭に浮かびます。
 
歌詞からすると、そこには、野ウサギがいる山や、鮒が生息しているような川が必要ですが、
作詞者の高野辰之は長野県の出身ですから、当時の長野の様子を歌った歌なのかもしれません。
 
故郷吉野集落はまさにこの歌の通りで、裏庭の風越山には野うさぎいたし、川には鮒も居ました。

(昔は田圃に鮒を放し子供を生ませて増やし秋口に獲って食料にいていました。その関係で川には田圃から逃げてきた
鮒もたまにはいたが、流れのキツイ清流に居るのは「たなびら」「いわな」が主な魚でした)。
 
ここから実際の思い出の「兎、美味しい」の話になるが、冬になると雪の上には野ウサギの足跡が沢山残っています。
よく通る道は大体決まっているので、藪の中の通り道に針金で作った罠を掛けます(罠は洋画で見かけるカーボーイが使う
輪投の縄と同じイメージ)。高校の頃は冬になると罠を仕掛け、毎日曜日に見回りました。沢山罠を仕掛けた大人の人は
2日〜3日間隔で頻繁に見回っていました。オレの見回りは休日のみでしたが、罠に掛かった兎は雪の上で凍りつき
冷凍状態なので、特に問題なかった。獲れているかどうか楽しみで見回ったが、獲れたのは一冬で1〜2羽程度でした。
 
獲れると家の人は皆喜んでくれたが、捌く(サバク)のも自分の仕事で、肉を食べれる状態にするが、骨・内臓・皮は土を
掘って埋めたが、凍った土に穴を開けるのが大変だった。また、一番記憶に残っているのは、兎は内臓(特に腸が長い)
が多く気持ちが悪かったことですが、最後まできちんと処理しました。なお、肉は柔らかくて大変美味しかった。
 
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