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●いすぎ
・『いすぎ』(いすぎの語源は?井堰の訛りか?) 「吉野いすぎは、滑川を大崩の辺りでせき止めて暫くの間河原を掘割で
通過させ途中出積み石によって河床を上げ山の中に堀割を穿ち、箱石で沈砂池を設けて、砂払が出来る構造とし、
以後上から前野に至る間を幹線として開削し途中に各支線を分岐し、それぞれの田圃に給水するものである。
 
このいすぎは、ほんばしからの出水と合流させ其処からは、いすぎ開削以前のほんばし水の流下水路を拡大して設けて
ある。戦後自家水道が出来るまでは、『いすぎ』 の水を飲料水やその他生活用水に使っていたものである。
 
◆稲作を始めて相等の期間が経ってから、柳の人達が入って来たりして人口が増え、ハバ寄りの上の方やハバ田の開墾が
本格的になった頃開削されたものと推察される。当時としては有史以来の大事業で画期的なもので有った。
 
したがってこの時期以前の住人はほぼ『のまねやぶ』より下に田圃を保有していた人達である。恐らく江戸時代に入って暫く
経った今から350年前頃と考えられるがどうだろうか?
 
吉野道より下の河原には大転石のゴーヤがあった、その付近よりもハバ寄りには、畑が点在して開かれていた。付近には
栗の・大木や小ガキの木などが生えていた。
此れらの樹齢は100〜200年位と推定されるものも有った。畑の開墾は200年以上前の江戸時代と推察される。
『ハバ』の麓には吉野いすぎから落ちて来る水が流れる小川があり、′此処にもイワナやタナビラ (ヤマメ) が棲んでいた。
春になると子供たちは.、この川で産卵して鰐化したメダカ.を、笊で掬いに行った。
 
「なめが」(木曽では川のことを「が」と言った)な滑川は「なめが」開田村の末川は「せえいが」と言う.滑川の上流は、本谷
と北股に別れている。本谷は一の沢、二の沢、三の沢、等の支流があり、砥沢と言う小さな沢があって昔の人はここから
砥石の材料を取って来たらしい。寝覚めには「といしや」という屋号の家があり、戸時代は砥石が名産品になっていたらしい。
 
記事:
<昔と変わっているが、現在の「ハコーシ」の写真>



 
『いすぎ』は思い出が沢山あります。夏休みになると吉野の小学生は全員(男女で遊ぶ習慣な無く全員といっても男だけ)、
沈砂池『箱石』へ来て水泳をしました。確か流れている水は『いすぎ』と言ったが、地名としては「ハコーシ」と言いました。
 
着くと先ず枯れ木を拾い集め焚き火をした。何せ水はキレイですが夏でも15℃以下であり、水に入っている時はよいが、
出ると寒いので焚き火にあたる必要があり、焚き火は欠かせなかった。
幅4m四方ほどの砂を沈める池(プール)ですが子供には大きく感じた。また中ほどは流れがあり水乗りもできた。
 
吉野の子供達は小学1年〜6年生になるまで夏休みは「ハコーシ」に通って皆泳げるようになりました。自分も小学4年生
頃には、見よう見まねで平泳ぎが出来るようになりました。毎日「ハコーシ」では飽きるので、時々滑川の本流へ行き、
深い場所を探して、近くから取ってきた草や木の枝を石の間に敷き積み上げ、水を塞き止め人工のプールを作る水遊びも
泳ぐより楽しかった。この時も火に当たらないと寒いので、いくらでもある乾いた流木を集め、川原は火事の心配がないので、
流木を積み上げ大きな火を炊いたが、この火遊びも楽しかった。
 
最近では、有料プールに水を流した滑り台をよく見かけましが、滑り台から滑り落ちるような遊びも無料で出来ました。
「ハコーシ」から、「いすぎ」の横に道が付いているので、その小道で「いすぎ」の上流へ30分ほど歩くと、滑川の本流から
水を取り込み場所に着きます。そこが終点でそこから今度は小道を下るのでは無く、いすぎの川の流れの中を下った。
川は適度の傾斜が付いており、殆どんの場所は緩やかな流れですが、所どころに急な流れもあり、ゆっくり流れたり早く
流れたりで、変化にとんだ無料の滑り台と言う感じで、これもかなり楽しかった。
 
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