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8.風越山   《関連リンク
 
●木曽八景の一つ風越山
・風越山は標高1596メートルで、国道19号線の各所よりよく見える山である、昭和30年の後半までは、南・西面の上の方
は全部草山で樹木はほんの一部分しでした。それまでは馬の飼料になる草を刈る場所となっていた。《写真a》
(古生層・黒い色の堅い水成岩「ホルンフエルス」で構成された石質で駒ヶ岳やほらろ「鍋底山」の花崗岩とは異なる)。
 
横井也有が『風越の青嵐』として木曽八景の一つに選ばれている様に夏になると、真っ青な山肌になり美しい眺めであった。
吉野の村から風越山に上るには清水の流れ出る『ほんばし』と言う沢の左右岸の山道を上がって行き、集りやと言う所に
着き(此処までは清内路峠断層の東上のハバが僅かに平らになった地形の場所)、此処から稍下り坂になった西久保
を経て東野つながる木曽古道の路、その上に野窪方面へ行く登坂の路、一番左側に真っすぐ上に上がって行く《注1》
路等に分岐している路が在った。
 
其れらの路は所々更に分岐して用山へ行き安くなってた。刈り干し刈りの時期になると集りや(タカリヤ)は賑わしくなり、
各家の人達が夫れ夫れの用山へ向かって喜々として上って行った。
 
●風越山の意味不明の地名
 風越山やその周辺には、意味不明の地名の所がある、『みずぽき』 『のくぽ』 『ほらろ』 『ひかんべら』 『しなちくぽ』
『ほんばし』などである。一部は標前地名(以前の和人が付けたもの)か、或いは吉野の方言、又わ訛った言葉だと思うが
解釈出来ない地名がある。『みずぽき』と言う所は、水の染み出るところがあり、山の斜面に少し平らになった部分が在って、
昔(江戸時代か?)三之助の先祖の人が、屋根板を剥いでいた小屋の跡が在ったらしい。当時屋根板の材料は、栗の木か
椹で在った。その当時はまだ宮林の木が自由に切り出す事が出来、年数の経った大木がいくらでもあったものと思われる。
後になってから分けた各家の用山の堺には、夫れ夫れの用山から拾い出した石を持ち出して集めてありここを『あらし』と
言っていた。
 
此処にはオオナラ(ドングリ)の大木があり、秋になると空実(ソラミ)と言うドングリが沢山落ちた、昔の人はこの実を拾い集、
めて凶作時の非常食として蓄えていた。各家の蔵の奥には、終戦の頃まで置いてある家が在った。
終戦後食料事情か悪いときも此の実を拾って粉にして焼き餅の様にして食べた、此の実は皮を剥いて蒸し臼で搗き、竹の葦
の子の上に木綿の布を布きその中に平らに均し居れてその上に又布を被せ、川から小さな竹樋等でちょろちょろ水を引き入
れて上の布のうえから流しかけ、1週間位あく抜きのた醂して、日陰干しにしたものを、食用にした。昔の人もそうして食べた
ものと思う。
 
記事:
<a.左中学2年(s33/1958)の写真で全部草山でした。b右は最近(2009年)の写真で草は殆ど無くなりました>
  
 
左の写真は中学2年の時の遠足の写真です。中学校の遠足は3年で駒ケ岳登山ですが、1年前の2年生は登山の練習も
兼ねて風越山へ登ります。オレにとっては慣れた山で道も知っているので、先頭で道案内をしました。遠足は学校行事であり
為になる事も教えなくていけないと思い、二等三角点(山頂と言う事になっているが、実際は山頂から少し下で見晴らしのよ
い場所にある)これは、地図作りには重要な石碑であると自慢げに案内した記憶がある。注意しないと通りすぎるので、
Webに風越山登山のブログも多数あるが、二等三角点の記述を見たことがないので殆どの方は見過ごしていると思われる。
 
《注1》一番左側に真っすぐ上に上がって急な坂道が続く道
遠足で案内したこの道は吉野の人は「5本松」道と呼んでいる。実際に松の木が5本並んで立っているのが上松町からも尾根
に見えた。しかし、伊勢湾台風(s32/1957)で3本倒れ2本になり5本松では無くなった。その後この道をなんと呼んでいるか
知らないが、最近(2009年)登った時も松はあったが他の針葉樹が大きくなったこともあり町から松の木は全然見えません。
 
ほぼ真っ直ぐな急な坂が頂上まで続きますが、野窪方面かの山道は大きな蛇行を繰り返す感じで、急な坂道ではないので
山登り初心者は、野窪方面かの山道がお勧めですが現在道案内が付いているか判らない。
 
<関連リンク>
風越山(木曽 上松町) - 登山コース
 
風越山 (木曽)
 
風越山(木曽)1699m - TOK2.com
 
風越山 (木曽)
 
(以上一部紹介ですが、他にも多数のWebページがあります)
 
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