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●蚕飼いの具体的な作業
・蚕飼いの具体的な作業は忘れてしまったが、大体、紙に生み付けられた蚕の卵を温度管理された部屋の中で、羽箒を用い
て撫でてやると蚕が生まれてくる、刻んだ桑の葉を食わせ次第に大きくし、平たい木の箱又は篶竹を網代編みした「カメノコ」
という浅くて平らな蓋籠にいれて桑の葉を乗せ、その上に蚕を放し、木の柱に何段(30センチ間隔)もの竹の棒を縛り付けた
蚕棚に乗せて置く。 
 
以後4回くらいの脱皮休眠を経て、だだんおおきな蚕になる、更に大量の桑の葉を与えていくと熟成して体が透き通った様に
なって来てやがて糸を吐きはじめる。すると上族器という(竹の骨に藁縄を山形に取り付け横開きの折り畳み式)蚕のまぶし
(巣)に入れて糸を吐かせ繭を作らせるための作業 (「蚕やとい」と言) を行う。
 
それから七日くら・いたつと、蚕は繭の内側に糸を吐きながら繭を完成させる。繭ができあがると中の蚕は蛹になる。
上族器から繭を外す「キンコかき」と言う作業で繭を取り出し、繭の外側の最初に吐き出した柔らかい真綿を小さなハンドル
の付いた巻き取り機で棒状に巻き取って取り除き、漸く繭の製品が出来上がるのである。
 
巻き取った真綿は何に使ったか分からないが、百匁幾らで買い取って行く人が居た。
(掃き立てから40日くらいで繭が出来上がる)製品の繭は「キンコ買い」に売ったり、町の取扱所へ持って行った。販売代金
はだいぶ後になってから出荷した繭の品質(糸メ=キンコ一貫目当たり絹が何匁取れるか)によって値がつけられ、
生産者に支払われた。当時の農家の貴重な収入源であった。 
 
蚕をたくさん飼う家では繭を100貫目くらい取っていた。大正12年頃の例だと、稲作は一反歩当たりの収入六十円に対し、
養蚕収入は百円だったという其のため桑畑が広まっていったらしい。一反歩、米六俵取れたとして現在の金額に換算してみ
ると、6*60キロ=360キロ、故に360キロ*300円=11万円。蚕では、11万円*1.7=約20万円になった。
今の1月分のくらいだが、生活レベルが低く自給自足に近い生活の下では中々得難い現金収入であった。
 
 
記事:
 吉野ではカイコのことをカイコ様と呼んでいました。呼び捨てにすると怒られるかどうか定かではありませんが、わざわざ
「様」を付けて呼ぶ訳は、貴重な現金収入源であり非常に大切だったことが、大人になってから判りました。
 
昔は、卵から孵(カエ)し、全ての作業を初めから各家で行っていが、たしか中学になったころ(s32/1957)に、吉野に飼育場
ができ、蚕が少し大きくなったから各家に配られるようになった。なお、蚕の飼育場は蚕のいないときは地域の集会場で
あり、村の会合はそので行うのは今も同じだと思う。
 
なお、飼育場(集会場)には卓球台もあり、休みの日には友達が集まって、1日中卓球で遊ぶこともありました。
 
 
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