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7、かいこ(蚕)
●蚕を飼うようになったのは
・日本で蚕を飼うようになったのは、奈良時代(700年)になってからとされている。しかし、本格的になるのは江戸末期なって
から(安政の開港で生糸の輸出が盛んになった)らしい。吉野でも明治から昭和十年代までは養蚕が盛んに行われていた。
 
大東亜戦争末期から次第に衰え戦後間もなく飼われなくなった。蚕は普通「春蚕」と「秋蚕」の二回飼い、たまに「晩秋」と
言って秋口に入ってから飼う人もいた。吉野の各家では、居間も畳みを上げ、天井裏のような二階まで飼っていた。
家の中は桑の葉と蚕糞の異臭が漂っていた。《写真a》
 
◆天保12年(1841)野麦峠に糸引きたちのお助け小屋ができて、同年行き倒れの供養塔 が立っている。
当時12歳くらいの女の子が飛騨から諏訪まで糸引きのため歩いて行き来していたらしい、暮れに家へ帰るころは雪道となり
喘ぎながら上っていったという。
・寝どころも無き賤が家の蚕棚かな  (子規・明治35年)
・さみだれや蚕煩う桑の畑       (芭蕉二冗禄七年)
 
 
記事:
実家も蚕農家であり毎年2回繭を作らせて売っていました。卵から孵った直後は特に温度管理は大変のようで、その部屋は
締め切りにして炭を焚いて温度を上げていました。飼育で桑を取ってくる作業を手伝った記憶はないが、繭を作り始める
直前に蚕は白色の肌が透きと透った色になり、スガエ(透き通った蚕を確かスガエると言った)たその蚕のみを拾い集める
作業は大変で、約30坪ほどの2階一面に広げて飼っている蚕を、子供も含め一家総出で拾いました。
 
スガエた蚕は集めて繭を作らせる容器(確かマブシと言った)に入れます。まだスガエテいない蚕と混ぜるとその蚕の糞尿で
(スガエタ蚕は桑を食べないし糞も出ない)繭は汚れて売れなくなるので、その拾い分けは重要な仕事です。したがって
幼少のころは分ける仕事をやらせてもらえないが、大人がスガエたのを選別するのを見て覚え、オレは小学校1年頃には
この仕分け作業を出来た記憶がります。
 
<a.カイコの写真>


大きくなると、切ってきた桑の枝を蚕の上に置くと、蚕が上に上がってきて
たべます。 食べ終わるとこの写真のように一面蚕ダラケです。
 
そのなかから、繭作り直前の透き通った蚕を拾い集める仕事は一家総出で行います。
もちろん幼少のころから、よく手伝った記憶が残っています。


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