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(2)篶作り
 正月が過ぎて二月に入ると笊作りが始まる、先ず篶を八等分に割り(もっと細かく割るものもある)内側の白っぽい柔らかい
部分を小型な片刃の包丁で削る、笊の立て骨になるものは四つ割くらいの太くて腰の強い状態にしあげる、横向きに編んで
いく材料は立て骨より細く薄く柔らかく削って仕上げる、笊の編み始めは、お盆の裏などの丸い平らな板の上で、先ず立て
骨を葛籠状に組み笊の底の中央部をほぼ四角状に組み、その回りに横材を編んでいく、最初は立て骨二本をl固めにして
編み始め、笊底の大きさが適当になり始める頓に一本づつに離して編み上げていく。
 
笊又は籠の高さが適当になるまで編み上げると、立て骨を折り曲げ順次後ろ側の曲げた骨に内側から外へ出るように差
し込んで最後に曲げ、叩いて骨を切り揃えて縁の骨組みを仕上げる。笊の縁は、別に切っておいた、『マノ』(矢だけの一種)
を割り木づちで叩いて平らにし、内側の柔らかい部分を扱き削り取った材料を用いて折り曲げたたて骨を中に包むようにして、
縫うように1〜3かい重ねて巻き付け丸く仕上げる。《写真a》
 
 笊や籠は使用日的によって、大小幾種類の形のものが出来る。寒い冬の間は囲炉裏端の火の側で煙りを浴びながら毎日
笊作りをする人達が大勢居た。
 出来た製品は各自で売り歩いたり、仲買の人に買ってもらったりして居た、何枚かの笊を横に重ねて背負い売り歩いたら
しい。笊を売り歩くことなどでも他所からの情報が入り、少しつつ開けていったものと思われる。
この笊作りも昭和三〇年代頃までで、以後は次第に生活が忙しくなったり、高齢化などで笊を件る暇や、人が居なくなった。
 
記事:
<a.イザロの写真>


 


 
いざろ(笊)につては強い思い入れがあります。オツトウ(吉野人は皆父はオツトウと呼び、お母さんはオッカーです)は毎年冬
の間はイザロ(桑のなどを入れる多き目のスズで編んだ入れ物)、又はビク(紐が付いており腰にぶら下げられる入れ物)を
作った。出来たイザロがある程度量が溜まるとオッカーが、開田村や大滝村などの雪の深い中を一軒ずつ売り回ってました。
 
そんな訳でイザロは貴重な現金収入源でした。篶刈りに付いては朝暗いうちに出かけて行ったが(18歳までの実家に居る
間」は続いていた)何処に取りに行ったか詳しいことは知らなかったが、今回小史で初めて知りました。なお、オツトウ・オッカー
と呼ぶ話はオレの時代までで、その後は吉野の子供たちも標準語の「お父さん・あ母さん」又は「トオチャン・カアチャン」と
なっています。
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