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9.吉野念仏の伝説
(1)吉野の念仏
 念仏は昭和の初め頃まで木曽の各部落でおこなわれており、橋の竣工式などには欠かせない儀式にひとつだった。
吉野では昭和三十年の終わりころまでしっかりしたかたちで残っていたが、新規に習う者がいなくなって消滅してしまった。
 
 念仏を習いたい人は部落の中で「しゆうめい」とか「おやかた」とかいって念仏の総体にわたって熟知している人について
教えてもらったらしい。
 
 念仏には、儀式の種類によって、また儀式の進行につれて唱える文句(本地)が異なり十いくつかの本地があり、
それに合わせて行導といって歩き方のきまりがあった。またそれぞれ鉦の打ち方があるので「おやかた」について順に
教えてもらうのである。
 
正月十六日には「ひぼどき」といって鉦や本地を書いた本を入れておく箱のひもを新らしい年にはじめて解いて念仏を申した。
ひもどきをはじめとして彼岸、お盆、秋彼岸、橋の竣工式、観音堂の供養、お寺の改築などに際しておこなわれた。
また三十五日や年忌の法要のおりにも念仏を申してくれた。彼岸には新仏の供養の為に行った。
 
彼岸の念仏の行事は、熊野権現で念仏を申し、つぎに新仏のお墓え行って念仏を申し、そのあと「まつはんば」で行導しな
がら念仏を申し、最後には公民館へ来て座敷で念仏を行い、此のあとお茶がでて彼岸行事が終わりとなる。
(念仏は本地と祈願寺という言葉を聴いた覚えがあるが、どうゆう意味かか知りたいと思う)
 
(2)吉野念仏の伝説
この文献は、前野金太郎さんが大正時代に、病床の徒然に作ったとかいてある。内容の大凡はつぎの通り。
 
源平の合戦後は平家の残党二三人が東野や吉野に入って来て、老樹を切り倒し野を焼き畑を作り居住していた。
吉野にきた先祖は「松永庄司」といって馬術に長けていた「松永庄司」は、臨終の時家族を呼び「吾は桓武天皇の未蕎で、
吾都にある時は常に京都誓願寺に安置せる弥勒菩薩を信仰Lたり、汝ら子孫も都へ上がり誓願寺に趣き其の由を語り尊像
を迎え信仰せよと言い残し終わった。
 
子孫は早速都へ上がり誓願寺に趣き其の其の由を語り尊像し、禅師に菩薩の降下を廟い尊像を戴いた。
其のとき禅師が「信仰の人よ隼日これを唱えよ」と、念仏本化なる有り難いものを授けて下さった。それから十年に一度は
位を取りに都へ上がれよと誓って別れた。
 
子孫は古道をたどって村へ帰り、御仏を寺久保に安置した。都から帰るとき御仏を笊の中にいれてもって来た。
それが吉野笊となっておる。
 
 ある時御仏のお告げで葦という草の生えているところに田圃を作り稲を植えよとある人の枕辺に立ってお告げになられた。
その田が寺田である。また作物が鳥獣の害に合うので御仏にお伺いすると、「紀州国熊野へ行って熊野権現をお迎えし
祀り「中玉宝印」と書いた紙を田畑に立てよと告げられたので権現を迎えてきた其のときの記念に大和の吉野より桜を求め、
村の中央に植えた(中沢の桜)。
 
・御仏のお沓げで数回都え上がり位を受けて念仏も卒業した、吉野念仏は「下行念仏」と言って近村の念仏とは異なった
所がたくさん有る。明治初年迄都へ上がることがあった。
 
§以上が元町会議員をされていた前野金太郎きんの書かれた伝鋭の内容の概要である。
 
これはあくまで伝説と考えられ、史実を参考にしたものではないと思われる。大正から昭和の時代には上松や吉野の人の
先祖を辿ってきた故事を知り得ることがなかなか出来なかったか忘れられてしまったものと思われる。
 
 但しこの伝説による「弥勒菩薩の出所」、「笊の発祥」、 「吉野念仏の起源」、などにつてはこれ以外のより所がないので、
今のところ此の物語に拠る以外に無いことから、「岳南生作・吉野念仏の伝説」は貴重な資料であるものと考えられる。
 
◆「松永庄司」と言う名前の出所は何か?たんなるあてすっばうとは思えない、関係する脊料があったものと考えられるが。
 
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<a.吉野の念仏(実家にあった念仏書>
  
 
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