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8.木曽の文学
8-1 木曽古道文学
(1)木曽古道
☆奈良時代末・平安時代・鎌倉時代(780〜1300)頃の木曽および吉野。
和銅六年(713)に木曽路(古道)が開通しても、坂本(中津川市千坦林)と伊那を結ぶ神坂道がいつまでも利用されていた。
それは延喜式の東山道を通る官道が坂本・(神坂峠)阿智(阿智村)・堅錐(飯田)のコースとなっている。
 
奈良時代末(780)に結実された『万葉集』には、防人か納税のため都へ赴く人を詠んだとされる次の歌が記されている。
「信濃道者伊麻能波里美知可里婆称爾安思布麻之牟奈久都波気和我世」
「シナヌジハイマノハリミチカリバネニアシフマシムナクツハケワガセ」
「かの吉蘇の新しい墾道を通って行く人よ、新しく開かれた道の刈り株で足を踏み傷めたもうことなかれ、履(わらじ)はいて
無事に行かせたまえ」と言う意味らしい。(上松小学校に建っているらしい)
 
平安時代の末から鎌倉時代になると、ぽつぽつ木曽路を通るようになった。このころ通った道は、東野から西久保−集りや
(タカリヤ)-吉野を結ぷ風越山中腹を通っていた道である。南から来れば糸瀬山(1817メートル)の中腹を越して間もなく、
風越山が見えて来る。木曽路古道を歩く旅人はこの山が深い印象となって残ったものと思われる。(昭和30年代は草刈場)
 
(2)風越山を歌ったもの。《写真a》
・風こしをゆふこえくれば時鳥ふもとの雲の底に鳴くなり、(千載和歌集・藤原清輔)
・風越の峯の上にて見る時は雲はふもとのものにぞありける(詞花和歌集・藤原家経)
・手向にもむすびてゆかむ風越のすえ野の尾花穂に出るなり(夫木和歌集・源 顕仲)
・ここにてぞ月はみるべきをちこちに雲きとめぬ風越の峰  (新六歌集 ・為 家 )
・風越の峰こえくれば木曽路川なみもひとつにうつ蝉の声  (詞歌集 ・鴨明)
・さくら花をちの麓に咲きにけり匂ふにしるし風こしの峰 (千五首歌今合・公 継)
 
これらの歌は何れも風越山(1699メートル)を望みながら歌ったものである。北から来れば正沢から二百メートル上がれば、
風越山が前に見えてくる。
これらの歌から当時の風越山付近の風景を想像すると、春は麓の遠近に山桜が咲いて、麓の吉野の上の方ではホトトギス
の鳴いている。また木曾川の上や上松の方にかけては、うす雲がかかっている時もあった、夏から秋にかけては、下の方の
野にはススキの穂が見事に咲きそろっていた。
 
これらの歌はどれも平安時代の京都辺りからきた旅人が、吉野を下の方に見ながら風越の中腹を通って行った時の印象
を記したものであり、当時この道の傍には大木は生えていないため上松の方迄見通すことが出来たし、下の方は、
ススキなどの草地であった事が伺われることから、吉野では既に馬を飼育していた事が想像される。
 
また当時の旅人との交流によって吉野にも都の文化が徐々に入ってきていたものと考えられる。
 
◆この時代通った道は古道であり、池尻→桟沢→枯沢追分→西久保→前野畑の→集りや→シナチ久保→はりきば
→わたろ→(ここで滑川を渡る)→徳原→大木→鳥止、のコースと推定される。吉野へ進入は、「さこり「」の当たりと思われる。
 
(3)木曽の桟を歌ったもの《写真b》
・おそろしや木曽のかけ路の丸木橋ふみ見る度に落ぬべきかな(千載和歌集・空仁法師)
・生いすがふ谷の梢をくもてにて散らぬ花ふむ木曽の桟 〈続後慧歌集・後鳥羽院内郷)
・なかなかにいひも放たて信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ(拾遺和歌集・源 頼光)
・分けくらす木曽の桟たえだえに行くすえふかき峰のしら雲    (続拾遺和歌集・後京極 摂政)
・ふる雪に木曽路の谷はうずもれてかけても橋は見えぬ頃かな (続拾遺和歌集・源三位頼政)
・すむ月のかげにとわたる山人のいてつるあとの峰のかけはし  (家集  ・屯 阿)
・旅人のかつぐ  訣に雨見えて雲たちわたる木曽のかけはし  (六帖  ・ ろ魔)
・思ひきや年月名のみ聞き渡る木曽の桟けふ越えんとは     (鳥丸 光栄)
・いにしへのなうの御世よりかけそめし木曽のかけ路のあれずもあるかな (家集 ・真淵)
 
現在の桟の跡は江戸時代のものである。ここは平安鎌倉時代には通行が出来なかったので、これらの歌にある桟の位置
は特定出来ないが、東野の南の梯沢と言う話もある。
 
8-2 芭蕉の足跡
芭蕉は貞享五年(1688)八月、四十五歳の時、木曽路を通り更科を回って江戸へ向かった、そのとき『更科紀行』を紀した。
また多くの句を残した。それが句碑となって立っている。
 
・送られつ送りつ果ては木曽の秋 (山口村新茶屋・楢川村役場前)
・ひる顔に昼寝せふもの床の山  (上松町寝党 臨川寺)
・塚も動けわがなく声は秋の見  (上松町上松小学校裏)
・桟や命をからむ蔦かずら     (上松町のかけはし)
・さざれ蟹あし這のぼる清水かな  (木曽福島町 木曽教育館横)
・おもひ出す木曽や四月のさくら狩り(木曽福島町新町)
・雲雀よりうへにやすらふ嶺かな  (鳥居峠)
・思い出す木曽や四月の桜がり   (新開荒町)
・木曽の栃うき世の人の土産かな  (鳥居峠)
 
以上は史実と文献及び想像などを取り混ぜた、大ざっばな木曽・吉野を取り巻く太古からの歴史及び、都人が旅の途中
で見た風景を断片的に書き書き綴ったものである。長い間草深い果ての他にあった吉野の昔の人達は、古文書などに記さ
れたものは存在していないが、平安時代から、風越の中腹を行き来する旅人に接して、かなり多くの都の文化的雰囲気を
取り入れて、心は豊かに暮らしていたことが想像される。
 
8-3 寝覚ノ床の文学《写真c》
江戸時代になると、木曽路は木曾川べりに移り、今の国道19号線とほぼ同じ位置に下りてきた。(室町時代から、だんだ
現在の位置に近づいてきた)
 
江戸時代に木曽街道が定まってからは、旅人は風越し山の中腹を通らなくなってしまった。
そのため風越や桟の歌は、ほとんど詠まれなくなり「寝覚ノ床」を歌枕にしたものが多くなった。
 
臨川寺境内にある句碑
・谷川の音には夢もむすまじを寝覚ノ床と誰名づくらん      (近衛摂政)
・たび枕かり寝ものうき夜の夢ねぎめにかわる松風の音    (鳥丸大納言)
・岩の松ひびきは波にたちかはり旅の寝覚の床ぞさびしき   (貝原益軒)
・老いの身におもひをそえて行道の寝覚ノ床の夢もうらめし  (小倉大納言)
・山里はねざめの床のさびしきにたへず音なふ滝枕かな    (細川幽斉)
・浦しものよはひものべよ法の師はここ寝覚ノ床をうつして   (綾小路宰相)
・ひる顔にひる寝せふもの床の山                  (芭蕉)
・筏士に何をか問はん青あらし                    (也有)
・白雲や青葉若葉の三十里                      (子規)
 
8-4 正岡子規の「かけはし記」
・やさしくもあやめさきけり木曽の山     (奈良井から鳥居峠あたり)
.馬の背や風吹きこぼす推の花      
・折からの木曽の旅路を五月雨       (宮ノ越付近)
・かけはしやあぶない処に山つつじ
・桟や水へとどかず五月雨
 
「かけはし記」:明治二十四年(1891)、25歳の時発表、東京から途中まで汽車に乗り、それから馬車や徒歩で木曽に来た。
 
関連記事:
a.風越山の写真


風越山は、木曽駒ヶ岳のふもとにあり、木曽八景のひとつ
「風越山の青嵐」として数えられました。
 
かつては、吉野地区の牧草地として使用され、ふもとから
頂上まで青々とした草に覆われて風が波のように駆け
上っていく風景が見られました。
 
かつて草原だった名残は、最上部のススキ野原に残ってい
ます。


b.現在の「木曽の桟」の写真


文中にある昔の木曽道に掛かっていた
本当の桟については、詳しい場所を知らないし
行った事もありません。
 
この写真は現在「木曽の桟」と言っている橋
ですが、本当の桟と、現在の桟との関係や
何故この橋が「桟」と呼ぶのかは知らない。
 
ただし、この橋の脇には、
「かけはしや命をからむつた蔓」
と言う芭蕉の読んだ俳句の碑がある。


c.寝覚ノ床の写真


 寝覚の床は、巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれてで
きた自然の彫刻です。古くは中山道を訪れた文人・歌人
などの記録に残り、今では国の名勝史跡天然記念物として
伝えられてきました。
 
 巨大な花崗岩の白と、川面のエメラルドグリーンが絶妙
な色彩を醸し出しています中央の大きな花崗岩の上には、
浦島太郎が弁財天像を残したといわれている浦島堂
が建ち、徒歩で辿ることができます。
 
 花崗岩の方状節理、岩盤に刻み込まれた歐穴は、国内で
も学術的に貴重なものとして注目されています。


 
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