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3.義仲追悼のため定勝寺を建設
約600年前の嘉慶年間の(南北朝時代1387年)木曽義仲十一代子孫、親富が義仲追悼のため、須原に定勝寺を建てた。
 
また寺伝によると永亨二年(1430)に建立され文安五年木曾川の洪水のため流失し、享徳三年(1454)木曽氏十四代家賢
によって再建されたが、再び文禄四年(1561)大洪水で流失したので、当時豊臣秀吉の木曽代官として、木曽をかんりしてい
た犬山城主石川備前の守光吉に拠って、慶長三年(1598)木曽義在の館址に再建されたものが現在の建物であるといわ
れている。
定勝寺は木曽三大寺→定勝寺(須原)、興禅寺・長福寺(福島)、のうち最も古く、上位におかれている寺である。
臨川寺、宝林院はその末寺である。昔は吉野の各家も定勝寺の檀家であった時期がある。
 
また此のころ親富は原野から須原までの、やく三十キロの新道を開いた、このコースが江戸時代の木曽街道である。
此のころ今から600年前からは古道を通過して行く旅人はいなくなった。応永七年(1400)徳原の住民が上松に移住して
て部落をつくったしいう。今でも徳原にその跡や古いお墓があるらしい。
 
4.進入してきた武田信玄に敗れる
約450年前、弘治元年(1595)武田信玄軍が福島に進入してきた。木曽義康(18代)は王滝城で敗れ、福島城におった義昌
〈19代)と共に、萩原の武田軍営に赴き降伏した。義昌の妹を甲州に人質として出し、信玄の娘を義昌の妻とさせ、木曽と
甲州との同盟を成立させた。
 
5.木曽家24代が終わり徳川家の支配となる
約400年前、慶長五年(1600)関が原の戦い終わり、木曽は徳川家の支配となり、木曽家二十代四百年のは終わりとなった。
関が原の合戦に木曽の山村良勝(タカカツ、二代)千村平石衛門らが徳川家に属し、その功により、山村良候(タカヨシ初代)
が木曽を与えられた。今から400年前、江戸時代の初めである。
(上記より10前、天正十八年(1590)秀吉は、400年にわたり木曽を支配していた木曽家を追放しました)《注1》
 
6.上松に材木所ができた
 約340年前、寛文4年(1664)上松に材木所がで来た。桧、椹、槙、アスナロが停止となり、栗と松は留木(切るときは尾張
藩の許可が必要)となった。享保8年(1721)焼き畑の禁止が出た。(山火事と洪水防止のため)。
 
7.寝覚臨川寺
寝覚のお寺は、寝覚臨川寺とよばれ、臨済宗の寺心寺派の寺で開山は、山梨県恵林寺の快川国師の法系鉄船禅師で
あるといわれている。創建は木曽谷が尾張領になったころ、慶長十三年(1608)前後と言われている。
 
当時は七堂伽藍が備わっていたと言われているが、文久四年(1864)五月十五思火災で、弁財天を残すのみで焼失してし
まった。その後文久五年三浦雲宗が本堂、庫裡を再建していたものであるが、昭和0年三浦衛宗によって本堂庫裡が
建て替えられ現在に至っている。
 
・「沢庵禅師」が寛永九年山形県の上の山から京都へ帰る途中寝覚ノ床に立ち寄った。紀行文『木曽紀行』に次の漢詩が
載っているらし。『人間万事黒甜卿 北欝千年寝覚床 古今月独佳賓客 緑水青山主張』漢詩の意味→(人生はすべて夢の
ごとし。寝覚の床の景色だけは時間を超えて木曽の美しい山々と水とに抱かれ、ただ月だけを相手に仏法の真理だけを
語っている)
 
・境内には、芭蕉、子規、横井也有(尾張の俳人)の句碑がある。また宝暦年山村良由の侍医を勤めた三村道益の墓碑も
ある。三村道益は名を撲といい、字名を季昆と称し普通は、道益とか石床と呼ばれていた。木曽福島の人で医者の家に生
まれた。木曽山中の薬草に目を付けこれを採取したり、栽培と製法を指導し、木曽の薬草の開発に尽くした。
宝暦十一月三十二歳江戸で卒した。寝覚めの「たせや」の先祖と言われているらしい。墓碑の撰文は大石熊耳の筆である
そうだ。
 
関連記事:(p1-52)(p1-53)(p21
 
[1]《注1》小田原城攻撃不参加〜徳川方に参加まで
大正十八年(1590年)、主君木曽義昌は、豊臣秀吉の北条征伐で小田原攻撃への不参かを理由に、秀吉によって
下総網戸に転封きれた。当時の当党山村甚兵衛良勝、千村兵之門良重、馬場半左衝門昌次、等がこれに従い、下総へ
移った、良勝の父で後に剃髪して道祐を名乗った良候も同様であった。
(小田原攻は子供の木曽義利は参戦しており、木曽家は徳川の支配になるまで終わっていいない)
 
義鼻の子義利が暴刑の罪で所領を没収されたので道祐木曽へ戻ったが、良勝、良重、晶次たらは下総の佐倉に蟄居する
こととなった。それは慶長五年(1600年)関が原戦役の前夜の話である。徳州家康は側近大久保十兵衛の進言をいれ、
山村吉勝、千村良重等を下野小山の陣営に招き、大阪方の武将石川備前光吉が守る木曽谷を奪取し、中仙道を西に
向かう義忠軍を先導せよ。と命じた。
 
山村、千村部隊はたちまち木曽谷を鎮定、さらに東濃における西軍の拠点苗木、岩村二城を陥落させる大功をあげた。
家康は木曽一族旧士の功労を賞し、下総の替え地として、美濃にて知行一万六千二百石、を与えた。
 
此のとき貰った領地は、美濃可児郡御嶽上ノ郷区内、羽埼村、ひへ村、久久村、大森村、美濃恵那郡落ち合い村、
中津川村、〜いきつし村、美濃土岐郡、恵那大久手村〜かまど村、などであった。(『木曽衆と尾張藩』による)
すなわちこの頃は可児郡、土岐郡、恵那郡まで木曽氏の支配下にあ った。
 
 
[2]寝覚山 臨川寺(寝覚め床写真)


・白雲や青葉若葉の三十里 (子規)
 
・ひる顔にひる寝せふもの床の山 (芭蕉)
 
・筏士に何をか問はん青あらし   (也有)


 
[3]山村家の代官時代
(木曽義昌が犬山の石川にやられてから十年後からは山村家が代々木曽の代官になった)
関が原の戦いに木曽の山村良勝・千村平右衛門は、徳川家康に味方して東軍に属し、岩村・苗木城を陥し、犬山城主
石川備前光をのぞいた。家康はこの功によって、山村良候(タカヨシ)を木曽の代官とし、千村氏を副代官とした。
 
・良候→良勝→長安→良豊→良忠→良景→良及→良啓→良由(タカヨシ)→良喬→良ヒロ→良よし→良醇(タカアツ)。
13代(1600〜1860)約260年くらい続いた。
 
寛文五年(1665)尾張藩が上松に材木所を置き、山村家が従来置いていたに贄川と妻籠の番所の他に平沢と落合い、
尾張藩直属の番所を置くようになり、木材に対して厳重な監視を行うようになった
 
・六代良景(ヨシタカ)時代の宝永四年(1707)に市川甚左衛門が木曽山元詰となり、上松奉行となって、。桧、椹、槙、、
明松(アスナロ)が伐採禁止、享保六年(1721)杜松(ネズコ)も切れなくなり、栗と松は許可が必要になった。
 
・享保八年には切替畑の禁止令が出て、焼き畑を作らせないようにした。焼き畑を作ると山火事のおそれや、木曾川下流の
洪水が心配であったためである。元禄・亨保時代は大洪水が頻繁に起きている。しかし木曽の農民は平地が少ないので
昔から山を焼いてアワやソバなどを作っていた。この焼き畑禁止は木曽の農民にとって大きな打撃であった。
 
・享保十一年上松材木所と福島上の段役所を合併し、民政は山村家、山林は尾張藩の支配と区別した。
切り替え畑禁止や板根禁止は農民からの再々にわたっての免除の願いが出されていたので、十四年になって免除が行
われた。
 
・享保十三年(1728)〜天保九年〈1838)ころのは漆、桧、杉、桐、栗、麻、などの植林が奨励された。
(享保十七年→享保の大飢饉、十八年米価騰貴し、江戸にうちこわしおこる。)
・文久元年和宮親子内親王、将軍家茂に降嫁(公武合体)十一月四日上松を通る。
 
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